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Traveling pelota

Wander Around Aimlessly

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ジョージア (グルジア) <メスティア・ウシュグリ>

Travel
*ジョージア (グルジア) の旅行情報についてはこちらの記事も合わせてご覧ください。

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空っぽな土地をまた歩きたくなった。でも中央アジアには行ったばかりだった。中南米には帰りたくても遠すぎたし、ヨーロッパにはそんな場所は思いつかなかった。残ったのはコーカサスだった。羊はいるらしかった。

夜行列車で山岳地スヴァネティの入口に着くと、ホーム脇に止まっているメスティア行きのバスに乗りこんだ。白んだ空の下、広大なぶどう畑のなかを山脈に向かって走る。窓から朝陽が差し込んでくると運転手はブレーキを踏んだ。湖畔のカフェに入ってインスタントコーヒーで一息入れた。

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席を立ってバスに乗り込もうとすると、背後から声をかけられた。
「こんにちは」
「えっ」
「やっぱり間違いなかったな」

日本語で話しかけてきたのはミシェルだった。パリ生まれのイスラエル人。石川県で歯医者として数年働いていたのだという。

「トダーラバー」
するとミシェルも目を丸くした。
「ヘブライ語話せるのか」
「いいえ。でもイスラエルには行きましたよ」

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村に着くとそのまま二人で部屋を取った。昨夜は雨だったが、幸いにもウシュバ山には雲ひとつ掛かっていない。隣の部屋の前ではランニングに出ようと若者が靴ひもを結んでいた。その腕から盛り上がる筋肉は逞しく、坊主頭で整った顔立ちをしていた。

「君たちはついてるよ」
男は向かいの山を見上げる。
「三日間曇っていた。でも今日は完璧だ」

「彼女と走るのか」
ミシェルが返す。
「何言ってるんだ。一人に決まってるだろ」
「ありえない。君みたいないい男が」
「いい男は特定の女なんて作らないさ」

そうだな、ミシェルは嬉しそうに手を差し伸べた。
「俺も独身さ。人生は楽しんだもの勝ちだよな」
「そうさ。早く山に行こう」

男は急いでいたようだった。すでに時計は11時を回っていた。予定を考えるには遅すぎる時間だった。

「付いていってもいいかな」
「途中から走るけど」
「山道口まで辿り着ければいいさ」

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スヴァネティ観光の拠点になるメスティアの大通りには、建てたばかりであろう木造のホテルやレストランが並んでいた。その間で埋もれている小さな売店や八百屋を見つけると、バナナや水を買い足しながら山道へつながる坂を目指していく。脇道では茶色い牛が寝そべり、黒豚は土の中を漁っていた。家に併設された石の塔に出くわすたび、ミシェルは欠かさずカメラに収めていった。

しかし掟が風化した今、塔の林立する風景はただただ美しいだけだ。世界遺産に指定されてからは見世物に代わり、入場料を稼ごうと村人たちは控えめに看板を立てていた。

「そういえば名前を聞いていなかったな」
ミシェルはカメラを下ろした。
「ミケーレです、よろしく」
「これは驚いたな」

ミシェルとミケーレは綴りが同じ。読み方が違うだけだ。

イタリアから来たミケーレは歯医者でもあった。そしてミシェルもローマに親戚がいるらしく、二人はイタリア語で話しだした。

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「俺は走れればいい。それだけで幸せなんだ」
「だったらウォリスに来ればいい」
「どこですか」
「フランスの海外県。フィジーの近くさ」

三十代のミシェルはパリの大病院で働いていた。同じ職場で見つけた彼女もまた医者だった。高給取りだった二人は贅沢の限りを尽くしていた。ルックスは良く、着飾ることも忘れず、ディナーには最高のお供だった。

「いい女だったさ」
ミシェルは鼻で笑う。
「でも未来は見えなかった。分かるだろう」

パリ育ちのミシェルは気づいていた。生気のない、虚飾まみれのブルジョワ社会に浸るつもりはなかった。パリを出なくては、そう思い立った時、幸運にもウォリスの求人広告が舞い降りてきた。面接をするだけでもポリネシアへ飛ばなくてはならなかった。採用される保証はなかったがこのチャンスは逃せなかった。

航空券を購入すると、その足で病院に辞表を出した。持ち物はすべて女に残し、ボストンバッグ一つで空港へ向かった。

辿り着いたウォリスはまさに理想郷だった。朗らかな漁民たちと夕暮れを眺めながらバーベキューを楽しむ。ネオンに代わって星空がそっと包んでくれる。波音に誘われて浜辺で眠ったこともあった。都会で塞がれていた感覚が蘇っていき、身体と自然の繋がりに目覚めた。

「でも歯医者の仕事なんて」
「紹介するさ。ヨーロッパよりは稼げないけどな」
「自分を保ちながら慎ましく暮らせればいい」
「その大切さを医者こそ学ぶべきなのにな」
「だから別れたんですか」
「振り返ってみなよ」

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いつの間にかメスティアを一望できる高さまで登っていた。展望台に腰を下ろすと一房のバナナを分けあう。

「都会を出ると自分の小ささを思い出せる」
「安心するだろう」
「ええ」

ミケーレは口のものを水で流しこんで立ち上がった。途中まで付いていきたいとミシェルもペットボトルをカバンに詰める。今日は急ぎたくないんです、と断りを入れると、良い選択だと親指を立てて二人は走りだした。

ウシュバ山からの冷たい空気が火照った身体を落ち着かせてくれた。ゆったりと呼吸をしながら青空に溶け込もうとしてみる。背中を反らせて胸を広げると太陽が手を伸ばしてきた。そっと抑え込まれて目を閉じると、頬を撫でる風にどこか懐かしい感じがした。

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山を降りてトレッキングの地図を手に入れるとカフェ・リホで予定を立てることにした。ルートは日帰りから数日間までと豊富にあるようだった。最奥地のウシュグリへ行くには4日必要だった。しかし明日からの天候は、雨、晴れ、雨、雨。

暗い先行きに思わず机から目を上げてしまう。

向かいの長机ではふくよかな女がバスチケットをさばいていた。その隣では注文のないキッチンの老婆たちがくつろいでいる。振り返ると仕事を終えた運転手たちもウオッカを一杯やっている。土産物屋の女主たちは入口のそばで歓談しながらも、観光客が歩いてこないかと通りに睨みを利かせていた。

登山客の相手をしているのはカウンターにいる若い女だった。注文を聞いたり、バスの時間を案内したり、時間を持て余している男からの声掛けを適当にあしらったり…

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「何にするの」
カウンターの女が声を掛けてきた。
「カフェラテください。それからバナナケーキ」

「明日、どこか行くつもり」
「ウシュグリまで歩きたいんだ。でも天気が悪そうで」
「そうね。車で行くしかないかもね」

窓の向こうには旧型のデリカが並んでいた。

「どこに行っても日本製ばかりよね。あなたも車に乗るの」
「いいや、都会では邪魔なだけだから」
「私も自転車しか乗らない。でも日本人はなぜ新型を作ってばかりいるの」
「仕事と称して遊んでいるだけさ」
「資源の無駄でしかないわ。あの旧型たちは十分使えるのよ」

モニカは去年の夏にメスティアに来たばかりだった。トビリシで映画の仕事をしていたらしく、小津安二郎の東京物語について話をしてくれた。彼女にとっての日本とは時の止まった古き良き田舎のようだった。尾道に行ってみなよと勧めると、若いうちにね、と笑いながら老婆たちに注文を伝えた。

「ここに来てから10キロも太ってしまったの」
「どうして」
「食べ物は何でも落ちているの。だからついついね」
「じゃあカウンターにあるクルミも」
「歩いていたら頭に落ちてきたの。今はぶどうやリンゴも多いわね」

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たしかに宿の庭にはリンゴの絨毯ができていた。通りかかった女主人に聞いてみるとこのままにしておくという。

「どこの家もこんな感じよ」
マリアは目もくれずに言い捨てる。
「有り余ってるから売れもしない」

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翌朝は霧が出ていたが、天気予報を信じてウシュグリ行きの車を探すことにした。ミシェルは雨になろうと歩いて上りたいという。走れないなら意味がないとミケーレは低地へ下りるらしい。

「どうして雨を嫌うんだ」
砂漠の民であるミシェルが訝しげに目を向ける。
「恵みの雨だろう。濡れたっていいじゃないか」
「生命の源ですよね」

ミシェルは顔を綻ばせた。その隙に振り切るように部屋を出た。

ウシュグリまではたった40キロなのに3時間も車を走らせた。山道が舗装されていたのは初めだけで、隣村のザベシからは穴だらけの泥濘がつづいていた。歩いている村人にさえ追い越されることもあった。曲がりくねる山間を延々と辿らなくてはならず、苛立つばかりの運転手は始終ウオッカを口に含ませていた。

森林限界に差し掛かると小さな村が見えてきた。黄金色の木々に囲まれてすでに秋の匂いが流れていた。雲は溜まっていたが悪い空には見えなかった。

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村の入口から見えるカフェに入るとドイツ人の二人組に相席を勧められた。ずっと扉を見ていたのか、まるで仲間を待っていたかのように見えた。

「村を出るのか」
「いいえ」
「来てしまったのか」
彼らは鼻で笑った。

「脱出できないぞ。もう8時間も車を待ってるんだ」
「何台か車は見えるけど」
「誰も出ようとしない。だから無理なんだ」

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山が近くに見える村外れに宿を取った。お世話をしてくれたのはリホという老女だ。

朝起きて洗面台に向かうと廊下が温かかった。窓際の煙突に手をかざしてみると熱がほのかに伝わってくる。居間へ下りてみるとパンが焼き上がっていた。リホは乳搾りに出るという。家は空っぽになるけれど扉は開けたままでいいらしい。

テーブルの上には薪でじっくり火を入れたパンから湯気が立ち上っている。その脇には香草の効いたサラダと乾いたヤギのチーズが山盛りになっている。寒い朝を吹き飛ばすためかナスのオイル漬けにはニンニクがたっぷり効いていた。

とても食べ切れなかったので残りは昼食のサンドイッチにさせてもらった。紅茶を飲み終えても紙に包んだパンにはまだ温かさが残っていた。

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わずかに朝陽を浴びる瑞々しい原野に飛びだした。風がまだ凍っていて慌ててニット帽をかぶる。はるか遠くまで列になる牛たちと目を合わせ、道を譲り合いながら奥地へ向かう。雪解け水に行くさきを阻まれることもあったが、通りすがりの馬に乗った男が助けてくれた。

朝陽に輝く露のなかで牛たちが草を食んでいる。遊んで欲しいのか白い犬があちこちに吠えたてているが、その声を無視して馬たちは青空を眺めている。大地が温まってきてダウンジャケットとフリースを脱ぐと、ヨガマットに寝転がりながらその光景を楽しんだ。

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川の流れに聞き入っているすきに、背後で犬がリュックを噛んでいた。懐いてるわけではない。きっとパンの匂いを嗅ぎつけたのだろう。

とっさにカバンを抱え込んだが犬は諦めなかった。走って振り切ろうとしても、川辺に座って無視してても離れてはくれなかった。ついに氷河まで犬は付いてきたが、先にいた男たちに気づくと、こちらのことは忘れたかのように興奮して駆けていった。

「ウシュグリで振り払ってきたのに」
男はスティックで犬の鼻を指す。
「こいつはなんて嗅覚してるんだ」

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犬は男たちと氷河を下りていったが、しばらくすると老夫婦に付いて戻ってきた。

氷河を眺めようと二人はリュックを置いたが、犬が咥えようとすると慌てて抱えこむ。落ち着かせようと夫はその頭を撫でた。顔を見合わせると、つい吹き出してしまった。

「どこから来たんだい」
「東京からです」
「妻は神戸で生まれたんだよ」

この旅では日本を知っている人に出会い続けている。数年にわたる二十代の旅でも決してなかったことだ。まるで自分へ目を向けるようにと言われているかのようだ。

「日本語話しますか」
「忘れちゃったわ。こんにちはだけよ」

ユリアが知っている風景は50年ほど前のものだった。しかし7歳でトイツに帰ってからも京都には足繁く通ってきたという。スイス人の夫、エッカは日本の布地を紹介する仕事をしていた。二人は仕事を通じてジュネーブで知り合った。

「やはりミシマだよ。燃えた寺の話」
「金閣寺ですか」
「そうそう」
「エミールは読みましたよ」
「ルソーなんて手にしたのかい」
「あなた、日本人は世界中の本を読んでいるのよ」

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「京都には行ったことあるわよね」
「中学生の時に一回だけ。清水寺しか覚えていません」
「こんな所に来ている場合じゃないわよ」
ユリアは頭を抱えながら続ける。
「寺ほど美しいものはないのに」
「たまには自然に触れたいんです」

わたしたちの島々には自然は残されてはいない。ほとんどが整備が施された人工的な自然だ。こんな原野から戻ってくると日本の森や山脈は箱庭のように小さく見える。心地よいかもしれないけれど、人の手の届かない深遠さが感じられなくて不安になる。

「スイスも同じだよ」
エッカはうなずいた。
「自由に歩く権利はないんだ。警告の看板ばかりで道も決められているだろう。ずっと監視されるんだよ。一度壊してしまったから過剰な保護しか考えられなくなった」

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他民族の脅威が迫るとジョージア国内の聖遺物はスヴァネティに隠されてきた。地理的に閉ざされたこの奥地を侵略しようとする者はいなかったからだ。そして今日までも無用な開発の手が及ぶことはなく、こうして原野が残されてきたのかもしれない。

「ウシュグリの人々はこの山間が与えてくれるものを知っていた。そしてこの風景を保つための不文律も成り立っていたはずだよ。よそ者だって静かにしていれば好きなようにさまよえる。身を委ねられる壮大な自然は心の支えになってくれる」

「だから旅をしてしまうのよ。どこかにまだ原野が存在することを確かめるの」
「お互い様ですね」
「そうさ」
「わたしたちは逃亡者なのよ」

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翌朝、紅茶を飲んでいると細雪が降ってきた。こんなに美しい冬だったら一度は閉じ込められてもいい。

しかし山道が塞がる前に脱出しなくてはならない。観光客がいないのに気づいたのは宿を出てからだった。道を歩いていても、カフェの中を覗いても、人の姿すら見当たらなかった。

村の端にかかる橋の上にジープが一台止まっていた。

「山を下りるんですか」
「客が来ればな。俺はメスティアの人間だ」

幸いにも昼までに3人の若者が通りかかった。村を出るつもりだったが諦めていたらしい。ジープが出るのが決まると歓声をあげて、バックパックを取りに宿へと駆けていった。

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メスティアに下りてくると雲間から青空が見えてきた。ジープはカフェ・リホのある広場まで運んでくれた。

おかえり!
ウシュグリ・アリス・ンシュベニエリ!

美しかったよとグルジア語で返すと、カフェにいる人たちの目を集めた。

どうやって覚えたの。不思議そうにモニカが近づいてきた。
「iPhoneに会話帳が入っているんだ」
「なるほどね」

モニカは周りに説明したが、カフェの老婆たちは理解しなかった。眼鏡を外して画面を覗きこむが小さすぎて見えないらしい。しかし文字を大きくしてみせると感心したようだ。指差されたフレーズを発音してあげるたびに笑いが起き、いくつもの手が背中を力強く叩いてきた。

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「今まで何を食べてきたの」
「サラダ、スープ、卵焼きとチーズかな」
「その他には」
「スヴァネッティではこれしか出てこなかった」
「あなた、何も食べてないじゃない」

呆れたモニカが勧めてくれたのはヨーグルト風味の羊肉シチューだった。昼だから軽くサングリアにしようとしたら、白ワインよ、と叱られた。アルコールが染みわたると窓枠に止まっている小鳥たちが輝いて見えた。その横では朝から山を上ってきた運転手たちが、目をつぶって気持ちよさそうにタバコの煙を吐いていた。

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マリアの宿へ向かって歩いていると風が湿っているのに気づいた。シャワーを浴びてテラスに出ると空は灰色に濁っていた。天気予報によると雨は1週間つづくらしかった。牛の背中はたくさん撫でたけれどついに羊たちには会えなかった。

翌朝に発つ客を相手にしてマリアは忙しそうだった。山を下るバスは毎朝7時に出るという。

「あんたも行くのかい」
「残念だけど」
「冬だよ。仕方ないね」

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台風のようなひどい雨音にまだ暗いうちから目が覚めた。

カフェ・リホの前にはすでにミニバスが止まっていた。乗り込もうとしたら、チケットを買ってくれ、と運転手に袖を引かれた。いつもの長机にはチケット売りの女が変わらず座っていた。夜まで働いているはずのモニカもカウンターに立っていた。

背負っているバックパックを見ると寂しそうな目で近づいてきた。

「行っちゃうの」
「霧に閉じ込めらてしまうから」
「また夏になったら来てくれる」
「ウシュバに行きたい。ウシュグリでキャンプもしよう」

「うん、山もいいんだけどね」
モニカは首を振った。
「東京物語を見ましょう。スクリーンを置いて待ってるわ」