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Wander Around Aimlessly

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ネパール − エベレスト・ゴーキョピーク −

*ネパールの旅行情報についてはこちらの記事も合わせてご覧ください。

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駅前のカフェでたばこの煙に絡まれていると、澄みきった空気を吸いたい思いに駆られた。氷水をグラスに入れながら目に浮かんできた雪山は、子どものときから本のなかで眺めていたヒマラヤだった。パラソルが立ちならぶゴミだらけのビーチへ行くぐらいなら、迷わずネパールへのチケットを買うことを選んだ。

エベレストと呼ばれるサガルマータへの出発点、ルクラへの行き方は2つある。お金を払って飛行機で行くか、さもなければ一週間歩いての峠越えだ。

友人から紹介してもらったドゥルガに相談して、雨期が空ける直前の9月初旬に飛ぶことにした。モンスーンが過ぎ去ったとたん、世界一の山を拝もうと観光客が押しよせてくるからだ。手渡されたトレッキング許可証は、山道の石段で詰まっている人々を誉れだかそうに載せていた。

「まるでコンサート会場の行列じゃないか」
「そうなんだ。ハイヒールを履いてくる女までいる」
「これでエベレストベースキャンプまで行きたいと」
「しかもミニスカートだなんて信じられないだろ。ただの思い付きなんだろうな」

カトマンドゥの空も気まぐれだった。朝の青空に飛び起きてタクシーに乗り込んだとしても、空港へ向かっているあいだに厚ぼったい雲が流れてきてしまう。なんとかチェックインまでこぎつけても荷物を返されたこともあった。スチュワーデスに耳栓を渡されてセスナに乗りこめたのは、チケットに書かれた日付から4日後のことだった。

レンガの街並みが小さくなり、緑の田園が広がっていく。しかし山奥へ入るにつれて空は消えていってしまう。重たい雲へ突っこんで乱気流に巻きこまれながら、機体は稜線のあいだを縫うように飛んでいく。

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いきなり切り立った崖が迫ってくると、山の斜面に開かれたテンジン・ヒラリー空港が見えてきた。目測をあやまれば谷底へまっ逆さまだ。五百メートルもない上り坂に降りると、機体は弾みながら懸命にブレーキをかけた。滑走路が終わるフェンスの前でなんとか静止すると、緊張がとけた機内にはしぜんと拍手がわき起こった。

「キリストに感謝だわ」白髪の女が胸をなでると、
「いや、ここではブッダにしておこう」夫は肩をたたく。

ルクラで迎えてくれたのはチュダという若者だった。インド人をエベレストベースキャンプまで案内したあとに、足止めされていた4日間をこの村で待ってくれていた。荷物を取って振りかえると、滑走路の向こうはすでに雲で塞がれていた。

チュダは胸を撫でおろす。
「もう後ろの便は来れないですね。引き返しているでしょう」
「天候は荒れていたんですか」
「ええ、誰も帰れませんでした。おかげでトランプは上手くなったようですよ」

大学生のチュダは学費のためにガイドのアルバイトをしている。来月は米の収穫期なので帰省もしなければならないという。すでに夏休みは終わっていたが、試験さえ通れば卒業はできるらしかった。

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打ち合わせのために山小屋へ向かう。路肩には黄色い弟切草が咲いており、トタン屋根の家からは薪を燃やす煙がながれてくる。商店を通りすぎ、指差された白塗りの石の建物に入ると、階段を上がったさきのテラスにならんで座った。ホテルを出てからまだ4時間だったが、チャイを口にすると安堵の息がつい漏れた。

机のうえに地図が広げられ、トレッキングのルートが説明された。
「ところで、あなたの家はどこにありますか」
「住んでいるのは海の近くです」
それは参ったな。心配そうな表情をすると、
「カトマンドゥすら高いってことですよね」

ネパールの首都が広がるのは標高1300メートルの盆地のなかである。しかしここは2800メートルで、これから向かう頂きは5000メートルを越えるのだ。

「今日はナムチェバザールに行くのは止めときます」
「遠いんですか」と地図のルートをなぞって聞く。
「8時間では無理かもしれない。あなたの呼吸の様子を見ていきましょう」

準備をして外へ出ると小雨が降っていた。点々とした村をつなぐ松林の道を、谷に響く川音を聞きながら歩いていく。キャップをかぶり、サンダル履きのチュダはまるで散歩に出ているかのようだ。振りかえっては、ティミラーイと口ずさんで元気づけてくれる。

滝のそばに立つ家のまえには大きな百合が咲いていた。石造りの塀に中年のシェルパは二メートルはある木板を立てかけて、日陰のなか水しぶきで涼をとりながら休んでいる。細いふくらはぎに盛り上がる筋肉はまだ若者かのように締まっている。

シェルパとはチベット語で「東の人」を意味する。三百年ほど前にチベット東部から移住してきたとされている。寒冷な高地での農業は難しく、放牧と公易で生活をしてきた。

彼らの道には「タルチョー」と呼ばれる5色の祈祷旗がある。「青・白・赤・緑・黄」は宇宙を構成する「空・風・火・水・地」を意味している。生命力と幸運に恵まれるよう書かれた旗の中央には、早く願いが成就するために、風を象徴する馬が描かれた。

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タルチョーのたなびく場所には「マニ石」がたいてい置かれていた。ただの石板から数メートルもある花崗岩とその種類は幅広い。表面に掘られる言葉のなかには決まって真言が含まれている。オーム・マニ・パドメー・フーム。オームとは完全なるマントラ。宇宙のすべてをつかさどる音。オーム、宝珠と蓮華よ、幸いなれ。

必ず右から周ってください。チュダはこの石を気にしながら先導する。

しかしあれこれ質問していると、いつの間にか大きなマニ石を真っすぐ通り過ぎてしまっていた。気づいて慌てて呼び止めると、振りかえったチュダは笑っていた。

「罰を与えるものではないですから」
「でも信じているんでしょう」
「ええ」
「回りなおさなくていいの」
「神様はそこまで厳しくないですよ。このまま行ってしまいましょう」

長い石段を上り、ヤクとすれ違い、吊り橋を渡っていく。そしてまた高い崖を上りきった先に大きなマニ車とチョルテンがあった。ナムチェバザールに着いたのだ。

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鉢状の斜面に作られた段々に家が築かれているのが見える。道につづく店先に並ぶのは山奥とは思えない品揃えで、防寒具はもちろんカメラのバッテリーやメモリーカードまでが目に入ってくる。住民たちの多くはパタゴニアやノースフェイスのダウンジャケットに身を包んでいた。鮮やかな原色がチベットの色彩に不思議と調和していた。

山小屋に着くなりチャイを頼んだ。疲れ果ててもう何もしたくない。いまキッチンで煮込まれている豆カレーを待つばかりだ。霧雨に濡れる村を眺めているとなりで、チュダは韓国語を勉強していた。英語を話さない人たちからの指名を狙ってのことだ。ガイド料だって割増せるのである。

しかしその眉間にしわが寄ると、単語帳は閉じられた。
「勉強できないな」チュダは諦めたようだ。
「疲れてるんじゃない。もう3500メートルだよ」
「身体は元気なんですよ。でも頭が働かないみたいです」

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ドーレまでの3日間、雨は降りつづけた。滑りやすくなった砂利道が足下に気をつかわせる。標高4000メートルを越えると小さい花が目立つようになってきた。ランやキキョウが下草のなかに映える。

湧き水の流れが聞こえるたびにチュダは立ち止まった。しかし手のひらですくって目を凝らすと、なぜか地面にまき散らしてばかりだった。

「さっきから何を見てるの」
「汚れですよ」
「ずっと同じじゃない」その手のひらを覗きこんだ。

しかしチュダは首をかしげる。
「ゴミが浮かんでます。分からないんですか」

激しい起伏がつづく道のなか、峠にはタルチョーが掲げられている。乱れる呼吸を整えながら旗のまえに二人並んで立つ。胸のまえで手を合わせると「アウム」という完全な音とともに、ここまで無事に上ってこられたことに感謝する。

隣りで手を合わせていた男は去りぎわに十字を切った。その風貌からして西から来たように思える。アーメン、アーミン、アウム、ナーム。ユーラシアに響きわたる音はそれほど離れてはいない。

雨に閉じこめられたドーレの午後をトランプでやり過ごしていた。時おりチャイを出してくれる小屋の主人も重たそうに背中を丸めている。谷間から延々と湧いてくる雲に心が折れてしまいそうだ。

窓に向かってチュダがこぼす。
「昔は洞窟のなかで眠ったものです」

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しかし翌朝起きてみると、雲ひとつない青空が広がっていた。

ついに雨期が明けたんだ。登山者たちは顔を合わせては抱き合った。主人も気分が晴れたのか朝食にはチャイをおまけしてくれた。

出発前にこれまで隠れていた山の並びを確かめたかった。南東にそびえる雪山を指してチュダに聞く。

「あの山は何て呼ばれてるの」
「名前はないです。ヒマラヤです」
「じゃあ隣りの山は」
「ただの山ですよ」

ネパール人たちはわざわざ山に登ることはない。果たして生活に役立つものが山頂なんかにあるだろうか。意味が無ければ名付けもしない。雪をかぶっていればヒマラヤで、かぶっていなければただの山。たとえ名前があったとしても登山家たちが付けたものがほとんどなのだという。このドーレという地点でさえそうらしい。

「ヨーロッパ人は名前がないと不安になるんです」
「今まで嘘を教えてきたってこと」
「この地図は捨てましょうか」とチュダがおどける。
「いいや、彼らのために取っておいて」

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ドーレからは森林限界を越えて高山ツンドラに入った。地面には岩を覆うようにして小さなアンドロサケが咲いている。ここまで上ってもまだ人の住む家が立っている。ジャガイモ畑のそばで年老いた男が、燃料用に円状にしたヤクの糞を並べている。

ドーコシの流れる谷間に沿って道はのびていく。行く手には雪をかぶったチョ・オユーの頂きがそびえ立つ。チュダは岩の階段を軽やかに進んでいくが、高地の影響を受けだしたのか足がなかなか上がらない。立ち止まると膝に手を置いて、肩でくり返し息をした。ゴーキョからの濁流が大きく耳に入ってきた。

チュダが不思議そうに見下ろしてくる。共感することが無理なのだろう。ガイドとして慎重に上る必要性は知っていても、身体ではそのことが分からないのだ。

「サンダルだけど、いったいどこまで履きつづけるの」
「頂上までですよ」その顔はとても涼しげだ。

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階段を上りきるとドーコシの轟音は落ちていった。聞こえるのは砂利を踏みしめる音だけになる。南風が流れてきて谷に霧がたまりだした。足下もごつごつした岩場に変わる。視界の悪いなか、踏み外さないよう慎重に歩みを進めていく。

草のうえで眠るゾッキョが、霧のなかに浮かび上がってくる。その顔は仏のように穏やかに目を閉じている。牛とヤクのハーフである鈍重なゾッキョが、自らこの山に上ってきたというのか。原始の人々はこのような驚異から神を見出してきたのだろうか。

地面はまた砂利になり、頭上には晴れ間が戻ってきた。ターコイズブルーに染まったゴーキョレイクが目に入る。左手にサガルマータを拝みに上がるゴーキョピークが現れた。タルチョーのゲートが旅の無事を祝福してくれた。

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湖のほとりに腰掛けると、チュダが小さく言った。
「雪が降ってますね」
「どこに」
「聞こえませんか。あっちですよ」

湖の対岸にならぶ山脈のうえに灰色の雲が流れている。地図を確認してみると10キロも先のことだった。チュダには遠くをつかむ感覚が備わっている。

「あの山を越えたらチベットです」
「先を急がなくていいの」
「雲は向こうの谷間を進むだけです」

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ゴーキョの山小屋に着くと椅子にへばりこんでしまった。とてつもない怠さが襲ってきたのだ。チュダが代わりにバッグを持って部屋まで案内してくれた。そのまま寝袋のなかで休みたかったのだが、あまりの寒気に食堂へ出た。

まばゆい日差しが流れる絨毯のうえでは、スペイン人夫婦とオーストラリア人女性が峠からの景色について語らっていた。

ソファーに腰掛けようと膝を曲げるのもつらい。まるで高熱を出したかのように身体の節々が痛む。ここまで上れたのは気を張っていただけなのだろうか。

「たぶん高山病ですよ」
チュダは心配そうにすると、小屋のコックに相談しにいった。
「ガーリックスープを頼みました。なんとか体力をつけましょう」

しかしスプーンに手をかけると胃が締まり、スープをすくう気にもなれない。

「こっち来て」
声がした方を向くと、スペイン人の女が呼んでいた。

朦朧とするなか返事すらできず、言われるがままに絨毯へ歩みよった。そして彼女のそばにある椅子に、肩を押されて座った。

「リラックスして。何も考えないで」

瞼のうえをそっと閉じるように撫でられた。だるさに抗わず、そのまま自分を沈めていく。かざされる手の気配を背後に感じていた。それは頭から腰のあいだを何度か上下したが、眠りに誘われるわけでも、あたたかい何かが伝わってくるわけでもなかった。

立ってみて。彼女に右肩をたたかれた。
目を開けても頭の中はぼんやりとしていた。いったい何をされたのだろう。

立ってみましょう。見透かされたのかもう一度右肩をたたかれた。

まだ筋肉は目覚めている気がしなかった。しかし促されて、立とう、と気持ちを入れたときだ。すっと腰が持ち上がったのだ。

自分の身に起こったことが全く理解できなかった。確かめようと、左、右と一歩ずつ踏みだしてみる。太ももに力は入っている。肘を添えて小走りもしてみる。スキップもジャンプもできた。頭まで冴えているのに気づいた。

「もう大丈夫ね」
後ろから声がかかる。
「いったいどういうことですか」
「特別なことはしてないわ」
「でも、何をされてるのか分からなかった」
「静かに内側を感じてみなさい。それだけで身体は整えられるから」

椅子に掛けなおし、スプーンに手をのばすと喜びが溢れてきた。食べられることの幸せだ。スープが身体に染みこんできて血もまた巡りだしてくる。窓いっぱいに広がる湖を楽しむ余裕すら出てきた。

チュダは胸を撫で下ろした。
「背負って降りることも考えていました」
「そんなことはさせないよ」
「いいえ、甘く考えてはいけません。でも本当によかった」

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山小屋にいても冷えるだけなので、ゴーキョの谷を案内してもらうことにした。

陽がさしてチョー・オユーの雪山が目にまぶしい。チュダはダウンジャケットを脱ぎ、半袖シャツ一枚で歩いている。右に走るのは雪解けしたンゴズンバ氷河だ。氷河が運んできた土砂が大きなうねりを成していた。

山のうえに目を向けたが青空はなかった。天頂はまるで宇宙が降りてきたかのように黒く塗りつぶされていた。引きずり込まれそうな重たさは不気味でさえあった。東のほうにはくっきりと上弦の月が映っていた。

旅に出て感じたいのは、まるで夢の中でしか見られないこの真昼の月のようなことだ。そばにあるのに気づけなかったものをただ拾いあげていきたいだけなのだ。

翌朝4時、夜明け前からゴーキョピークへアタックする。薄い空気に喘ぎながら頂きにたどり着く。岩に背をもたせかけると、陽が上ってきたばかりの青く白い山々に目を向ける。風が撫でていくタルチョーの先には、チョー・オユー、サガルマータ、ローチェ、ヌプチェ。そしてはるか東にはマカルーの尖った峰が見えた。

澄んだ青空の南から、水蒸気が輝きながら谷を上ってきた。そして反対のチベットからは雲の切れ端がゆっくりと流れてきていた。あの男が描いたことに嘘はなかった。このきらめく空気のなかではシャングリラ、家には金の瓦がふかれ、川床には宝石がきらめき、永遠の若さを保てる谷を見ることは容易にちがいなかったと。