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Traveling pelota

Wander Around Aimlessly

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キルギスタン − 羊飼いと胡桃の森と −

Travel
*キルギスタンの旅行情報についてはこちらの記事をご覧ください。

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また会いたいと思っていたのは羊飼いの人たちだった。

初めて言葉を交わしたのはサハラ砂漠を旅していたときだ。アルゼンチンのパタゴニアでは灰色の影を遠くから追うだけだった。ようやく寝床を共にできたのはキルギスタンの草原だった。一日歩いていればどこかで馬乗りの姿を見ていた。

羊に草を食わせている、馬に乗った親子と目が合った。二人とも毛皮の帽子をかぶり、黒皮のコートで身を覆っていた。お互いに顔が似ているのを気にいってくれたようだった。

「チャイを飲むかい」と息子は言った。
「ありがとうございます」
しかし父はそれを制す。
「どうせなら泊まっていけ」

父が手綱を引いた。息子の後ろにまたがるとユルタへと案内された。

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山腹に雪解け水が一本の溝を引いていた。放牧の拠点となる白いテントはその脇に立っていた。ピンクの布を頭に巻いた女がバケツで洗濯をしている。湯を沸かすコンロからほのかに馬糞の香りが流れていた。

母からチャイを頂き、馬を借りて放牧を再開した。羊たちはひと声かければ従順に動いた。連れていた犬は吠えたてる必要がなかった。鶏は放し飼いだったが、夜風が吹けばしぜんとユルタの陰に集まっていた。

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5歳になる男の子の役目は馬糞を集めることだった。ドンキーの尻尾に木箱のついた紐を結うと、背中に乗って鞭を打ち草原を動きまわる。母には甘えてばかりだが家畜には力強く喝を入れる。そして仕事が終わるとドンキーの前足に縄をかけ、逃げ出せないように歩幅を狭くするのだった。動物の主である自覚はすでに叩きこまれているのだろう。

日々逞しくなる姿に母は満面の笑みを浮かべている。その腕には生まれたての赤ん坊を抱えている。歩くことを覚えさせるために母は地面を鞭で叩く。すると赤ん坊は草地のうえを這いずっていき、手にした鞭を歓喜の声を上げて振り回すのだった。

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陽が傾いてくると雪山から風が吹きつけてきた。耳がちぎれそうに痛い。毛皮の帽子なしでは凍傷になってしまうだろう。

ユルタの中へ逃げこむと羊のスープが用意されていた。水差しで手を洗うが土はこびりついたままである。皿に混ざった羊毛をつまみ取り、骨を掴んで肉をかじる。生きてきたことが伝わってくる弾力だ。噛み締めるたびに顔がほころぶのは、きっと生命を取りこむ喜びなのかもしれない。

「どんどん食べろ」
家長は黒い手で肉をちぎり分けていく。
その後ろから透明のぶよぶよした塊を、妻が鍋に入れて持ってきた。
「いったい何ですか」
「お尻の脂肪だよ。これで身体を守るんだよ」

短い夏、遊牧民は草を探して羊と歩きまわる。その羊毛で寒さから身を守り、時には身体そのものを取りこみ生命をつなぐ。しかし人間もいつかは土へ還り、草の一部になる時が来る。そして夏になると羊がまた戻ってくる。自然とは人間の存在そのものなのだ。

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秋はあっという間に逃げていく。この山間もいつ閉じてしまうかは分からない。
遊牧民の男が羊を連れて降りてきた。川沿いを進んで草を食べさせている。お互いの姿を認めると声を飛ばしあった。

「この先はまだ越えられるぞ」
「こちらも大丈夫です」
男はうなずいた。
「だが風がよくない。早めに抜けるんだぞ」

季節は一夜にして変わってしまう。先を急がなければならない。

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峠の向こうには平たい高原が広がっていた。人の痕跡はすでに草に呑み込まれている。聞こえてくるのは自分の足音か、ふいに舞い込んでくる風だけだ。見渡すかぎりの緑に包まれていると、自然をそのまま一つのものとして受け止めるようになる。その広大さの中では自分という存在も希薄になり、考えと名のつくものが心に浮かぶこともない。

テントに入って寝袋を広げたがなかなか眠りにつけない。身体に熱を作らなくてはいけないのに、夜空の美しさが引きずり出そうとする。靴を履いて外に出ると、しんとした宇宙の気配が広がっていた。湖畔に立つと寒さを忘れてその静寂に耳をすませていた。

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朝起きると一面がうっすらと雪に覆われていた。澄んだ青空だった。冬はすぐそこまで来ている。

身が引き締まる冷気を嗅ぎながら、風がなでていく草地を歩きだした。しかし山間に轍を見つけたときには低い雲が広がっていた。リンゴを取り出して気力を高めようとしたときだった。車が近づいてくるのが見えた。

「降ってくるぞ。乗っていけ」
男は後ろのドアを開けた。すでに女がひとり、鞄を抱えて座っていた。
「気にするな。これが遊牧民なんだ」

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山を降りるとクルミの森に囲まれた小さな村に泊まった。

お世話になったのはハンチング帽をかぶった小柄な老人だった。小学校の校長であるイスマイルの家は、玄関を開けると立派なクルミの木がそびえ立っていた。左手にはリンゴの木が並んでいて、落ちた実をニワトリがつつき回っている。子供たちは自転車を乗りまわし、妻は絨毯に乗って綻びをなおしていた。

エリザが立ち上がって別棟へと案内してくれた。ベッドの上に寝転がると、とたんに小雨が降ってきた。葉の擦れあう音がして、気温が急に下がってくるのを感じる。すでに冬は山から下りていた。

雨は際限なく単調な音を立てている。自然が気持ちにブレーキをかけてゆく。すると村人にできるのはチャイを飲むことぐらいになり、運が良ければ客人にもおこぼれが舞い込んでくるのである。

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「これを食べろ」イスマイルが肉の薫製を差しだした。
「すでにパンは頂きましたよ」
「いいからここに座るんだ」

バン、バンと座布団が叩かれて、暮らしの中心がイスマイルのテーブルへと移る。ごわごわした重たいパンをかじり、熱々のチャイを口に含む。窓から見える山間の淀んだ雲は消えそうにないが、思いがけない持てなしが森へ入れない焦りを消していく。旅とは思い描いているそばで起きていくもう一つの出来事なのだ。それを知ることは全てを受け入れる助けにもなる。

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朝はサラダとオムレツ。夜はじゃがいもの煮物。別棟まで運びにくるカリムは八歳の男の子だった。大抵のムスリムは驚くほど礼儀正しい振舞いをする。テーブルを拭いて、お皿を並べると、食事が始まるのを見届けるのだった。

「ボナペティ」
「ありがとう」
「ハラショー?」
「うん、美味しいよ」
その言葉を聞くと安心して、カリムはお辞儀をして去っていく。

夜の片付けだけはエリザが来た。子どもは眠りにつく時間だからだろう。

見送りに扉を開けると、両手でお盆を持つエリザは前に出た。そして屋根の端へ離れると裸電球の下でスカーフを頭に巻きなおす。叩きつける雨にも動じない、凛とした佇まいだった。都市を出て、はっとさせられるのはこの強さなのだ。

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朝起きると雨は止んでいて、庭にはびっしりクルミが埋まっていた。

リンゴの木の下からイスマイルが幼いヤクブと手をつないで向かってきた。まだ歩くのもおぼつかない息子が屈んでクルミを手にすると、殻を手根で石にたたき、実を取り出して食べさせてやる。エリザはバケツを手にして淡々と拾いまわっており、殻を剥きやすくするために水を入れたタライに浸していた。

叩き方を真似してみるが、殻にはヒビすら入らない。しかしイスマイルが手に取ると、ほれ、と簡単に割ってしまう。その手の分厚さ、固い肌ざわりに感心していると、ふいに老人はこちらの手を握りつぶしてきた。

「どうだ」
「参りました!」
「いいや、まだまだじゃ」

そして高笑いを上げたイスマイルは腰から抱え上げてきた。締めつける力強さに思わず悲鳴が出てしまう。何度も肩を叩き、許しを乞いて、ようやく解放してもらうと、痛みを紛らわそうと声をあげて悶えてしまう。するとイスマイルはにやりとして、ヤクブのもとに戻っていくのだった。

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薄曇りのしたで空があかるみ、小鳥がさえずりはじめた。

すでに昼近くになり森へ入るには遅すぎる。しかし次の機会はもうないかもしれない。リュックを背負うと、庭に落ちたリンゴを一つ拾って歩きだした。

雲が割れて、淡い光がちらちらと降ってきた。モスクの前から坂を上がっていき、滝を横切って山へ入る。山肌の道を老人がカゴを背負って下りてきた。青年を乗せた馬が泥濘みを通って追い越していった。

森にはまだ夏の薄暗さが残っていた。林冠は幾重にも重なった葉で覆われ、空気は冷えて濃くなってくる。落葉の敷物が雨を吸って膨らみ、芳醇な森の香りが鼻を満たしてくれた。赤いスカーフを頭に巻いた女の子が屈みこんでクルミに触れている。しかし目が合うとまるでリスのように走り去ってしまう。

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歩いている間は外界をほとんど塞いでしまう。頭の中にある流れに乗って、過去や未来を考えて過ごしてしまう。濡れ固まった地面からは音が立たなくなっていた。息づかいすら気になりだして、呼吸を整えるために立ち止まった。

気持ちを静めて、目の前の木と一つになろうとする。足元を大地へ根ざすだけでいい。しだいに頭の中の雑音が消えていく。鳥のさえずり、クルミの落ちる音、葉を揺らす風が寄り添ってくる。自然のなかで、ありのままでいるだけで身体が整っていくようだ。その心地よさのなかで森に吸い込まれていく。

オレンジの光が目に差しこんできて、意識が呼び戻された。落ちてきた太陽が梢の隙間から見える。帰らなくてはならない。闇が訪れたら動けなくなる。

戻ろうと振り返ったときだ。目のまえにはやかんを手にしたおばあさんがいた。

チャイ?

その澄んだ目に、頷かずにはいられなかった。人の気持ちを温かくさせる笑顔だった。危険は承知だったけれどその気持ちを逃すわけにはいかなかった。

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向かったさきにはカーキ色のテントが張ってあった。子どもが二人立って待っている。女の子も男の子もまだ十歳に満たないだろう。

テントの中にはクルミが詰まった麻袋が重なっている。子どもたちの小さなバッグ、寒さをしのぐ毛布が4枚。そして両手で抱えこめるほどの釜戸には、鉄で作られたポットが差しこまれていた。

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チャイの湯を作るためにおばあさんが火をつけると、女の子は積まれている枝を小さな膝で折りだした。腕のように太い枝を淡々と掴んでいく。落ち着いた目をしており、力を込めるときも顔色ひとつ変わらない。バチバチと火が燃える音、枝が折られる音が、耳のなかで心地よく重なり合う。

男の子がナンをちぎり、イチゴのジャムとバターを出してくれた。チャイとともに少しだけいただいてお礼にリンゴを差しだす。受け取ったおばあさんは祈りのようなものを呟くと、両手で顔を覆って額から撫で下ろした。

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イスマイルの村を離れてからは北に向かって標高を下げていった。肌色の荒野に流れるコバルトブルーの大河に沿ってバスは幹線道路を走っていく。砂利道へ折れ曲がり、山間に入っていくと緑が戻ってきた。村へ着いたころには陽は尾根のうえにまで落ちていて、裸になった男たちが川で身体を洗っていた。

当てもなく渓谷の中を歩いていると青年が声をかけてきた。

「ホテルは」
「どこに」
「すぐそこさ」

ティムルが指差したのは目の前にある民家だった。屋根さえあれば十分である。

入口にはリンゴがどっさりと袋詰めにされていた。チャイハネ式のテーブルで羊のスープをすすりながらパンをかじる。干しぶどうとお茶で口直しをしていると、脇に本をはさんだ女が連れられてきた。英語の先生らしかった。

「どうしてこんなに遠くまで来たの」
「落ち着きたかったんです」
しかし若者たちは納得してくれなかった。
「住むとことはあるんだし、物だってたくさんあるんでしょう」

この村には刺激が足りないのだ。きっと人生が居眠りしてしまうのだろう。

ワゴンのエンジンがかかると大音量で流行りのポップスが流れだした。若者たちは目を輝かせて乗り込んでいく。ティムルも手を振って別れを告げてくると、得意げにヘッドライトを照らして闇の中へ消えていった。

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日の出が来ると村人たちはカゴを背負って山へ入っていった。その後ろを野生のヤクがのんびりと追いかけていく。山間に真っすぐ伸びる轍を進んでいくと、小川を渡った対岸にはリンゴの森が広がっていた。朝露で濡れた草のうえには落ちた果実で赤い絨毯ができている。村人が採集に励んでも拾いきれないほど豊かなのだ。

小川に戻ると肩に食いこんだバックパックを下ろした。疲れた足をふくらはぎまで水に浸しながら、拾ったリンゴをかじって喉を潤す。ひんやりした心地よさにほぐされると灰色の巨岩のうえに乗って座りこんだ。

やわらかな風が頬を撫でてくる。木々の揺れる音が聞こえて川下に顔を向ける。二頭のヤクが足を止め、はらはらと紅葉が舞い落ちるのを眺めている。風が抜けると、ヤクは行く先に首をゆっくりと戻す。

余韻が終わるのを待って山の峰に目を移した。いつの間にかヤクのように、静かに身体を動かしていることに気づいた。つい口元がゆるんだ。